金沢駅をずっと北西へ向かうと港町の金石(かないわ)。

こちらの元商家町家との出会いは一年前の春でした。ここで売主様の先々代は、伝統の発酵食品である「こんか」という魚の糠漬けの加工販売業を商ったのだそうです。海運で栄えた金石らしい歴史を映す町家。金石は北前廻船の歴史的ビジネスヒーロー銭谷五兵衛の本拠地。函館ならば高田屋嘉兵衛です。

海側の不動産にあたるのは初めてでした。相続者代表の売主様の方も「進学してからずっと離れたところを転々として仕事をしていたので、ここの事情はほとんどわからないのです」とのことでしたが、あるときふと、「祖父が移り住む前にここは遊郭だったと、父からか叔父からか定かではないが、聞いたことがあったかもしれない」と、古い記憶を掘り起こして言われたことがありました。

前後に二つの階段のある造りであり得るかもしれない、そうだ、過去この地域はどうだったか確認しようと、まずは図書館を訪ねて地域のことを調べてもらいました。

町史には、「宮腰を上金石町、大野を下金石町と名をつけ、それを結ぶのに相生町を造りそれ迄許さなかった芝居小屋、御茶屋を許して両町の人で町を造らせた」という記述が見つかりました。また、県史や市史では、金石湊町芝居番付や、慶応3年前後の「相生町にて小屋建て物真似興行願書」「物真似手踊興行願書」「茶屋商売願書」「相生町茶屋商売人規定書」といった記録も確認できました。確かに金石は、ふるくは繁華街だったのです。(海みらい図書館 資料係:吉村さん・鈴木さん レファレンス回答)

時代が進み戦後になると、町家は製造業のかたわら小売店も営むようになりました。売主様によると昭和 28 年(1953 年) に小売店開業。順調に拡大していた海産物加工業のかたわら店を開業したのです。そして、加工製造した「こんか漬け等」も店で売るようになりました。店先のご婦人たちの映る写真は、きっとそれからしばらくの頃のものではないでしょうか。それより時代が下っているでしょうけれども、金石地区出身の40~50代の人たちに尋ねると、「知っている。子どもの頃にお菓子買いに行った」「おばちゃんのこと覚えてるよ!」「若いころ神輿担いでふらふらになって休憩するときに、中からジュースがでてきて、ハイッハイッって配られましたよ」「えー、あの店かあ。懐かしい。残っていてほしいなあ」と、みなさんそれぞれにこの商店の記憶がありました。

平成になる前までは、子供たちもワラワラといたこの海街。一年前からご相談をくださった売主様は、きちんと家を引き継いでもらうか、だめなら更地にして家仕舞いを完徹しなくてはと、月命日ごとに遠方より訪ねてはお参りと整理を続けられていました。行政と連携してこちらも、調査したり販売戦略に知恵を絞っていました。

大家族の商家です。とてもきれいに磨かれていますが、広くて全体を修繕して使うには金額も張るでしょうし、昔の繁華街とはいえ今は県内外に知名度の高い人気の場所というわけでもありません。良い形で売りきれるだろうか…。夏には東京からの視察にも寄っていただき周囲を案内すると、「オランダの運河と景色が実によく似ている」と同じ海運で栄えた遠い地名を挙げられたこともありました。

約束の春が来て、協力会社の内見や腕利き記録撮影者による画像資料も終え、熟慮を重ねどうにか工夫して売り出していこうとなった時。なんということでしょう、異なる場所の空き家を購入した方の関係者から「金石で空き家を探している」という声掛けがあり、すんなり新しい所有者が決まりました。

売り側の関係者は皆このご縁にとても驚きましたが、買い手の方も「こんなにシビレるきれいに残された家に出会えるとは」とこちら以上に驚いてくださると同時に、「一つステージ上がる予感。大事に繋げていかなあかん」という言葉まであり、仲介業者としてはとてもうれしい案件のおわりを迎えることができました。

そういうわけで、この家はもう募集する間もなく売り切れてしまったのですが、記録写真もあり、経緯もあることですので、新しい所有者様の許可のもと、引継ぎ記録としてこのページを作りました。最後の1枚のお店の写真は、売主だった方にお願いをしてアルバムから撮らせていただいた写真の写真です。こうして今ふたたび、この町家は生き延びることになったのでした。